何もない日が、いちばん尊い日かもしれない

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何もない日が、いちばん尊い日かもしれない

最近、「特別なことがない日」が増えてきた気がする。 誰かと会う予定があるわけでもない。イベントもない。 天気も平凡で、夕方にはなんとなく冷蔵庫にあるものでごはんを作って、夜はYouTubeでも眺めておしまい。

以前の私は、そんな日々に「焦り」を感じていた。 何もない日=無意味な日。 誰かに話せるような出来事がない日は、自分が「取り残されている」ような気がしていたのだ。

でも、ある日ふと、思った。

――この静かな時間のなかに、本当に大切なものが、ひっそりと息づいているんじゃないか?と。

特別な日は、特別じゃない日の上に成り立っている

人生の中で、特別な日って何日あるだろう。誕生日、合格発表の日、就職が決まった日、誰かに愛を伝えた日。たしかにそれは記憶に残るし、人生を形づくる大事な瞬間だ。

でも、それ以外の日は、全部「なんでもない日」だ。むしろ、そっちのほうが圧倒的に多い。

その「何でもない日々」があるからこそ、特別な瞬間が際立つ。静かな日があるからこそ、嬉しい日が輝く。何も起きない平穏な日が、心の土台を作ってくれているのだ。

ふと気づく、小さな豊かさ

先日、朝にトーストを焼いていると、キッチンの窓から光が差し込んできた。 バターの香りがふわっと広がって、コーヒーの湯気が立ちのぼる。 その瞬間、なぜか泣きたくなるほど「幸せだな」と感じた。

誰かに語れるような大事件ではない。 でも、その静けさのなかに、「生きている」という実感があった。

洗濯物の柔らかい手触り。 寝る前にララ(うちのゴールデンレトリーバー)の背中を撫でる時間。 味噌汁の湯気の向こうに揺れる、家族の顔。

それはどれも、「なくなってみて、はじめて気づく」ような、ささやかな幸せたち。

「退屈」は悪いことではない

SNSを開けば、誰かのキラキラした日常が流れてくる。 旅行、イベント、自己成長…みんな輝いて見える。

でも、いつも思う。 人は、自分の人生を「比べる」ことよりも、「感じる」ことでしか、本当には満たされないのだと。

退屈な日。何もない日。 そんな日にこそ、自分の感情や感覚と静かに向き合える。

耳をすませば、時計の音が響く。 陽だまりのぬくもりが、背中に優しく触れる。

忙しい日々では気づけなかった、世界の「呼吸」を感じられる時間。

それでも、何もない日が苦しいあなたへ

「何もないこと」が、ただただつらい。 そう感じる日も、あるかもしれない。

そんなときは、自分を責めないでほしい。 無理に感謝しようとか、ポジティブになろうとか、思わなくていい。

ただ、「生きているだけで、充分えらい」と、心の中でつぶやいてみてください。 私も毎日そう思っています。

そして、何もない日に、そっと目を閉じてみてください。 あなたの胸の奥に、小さく灯っている「何か」が、きっと見つかるはずです。

最後に:今日も、ちいさなおくりものがある

今、あなたがこの文章を読んでくれていることも、 こうして言葉を綴っている私の時間も、 たった数分の、静かな時間かもしれません。

でも、私は信じています。 この一瞬も、あなたの人生のどこかに、やさしく残る「ちいさなおくりもの」になれたらと。

今日が、何も起きない1日でも大丈夫。 それはきっと、心を休めるために、そっと用意された時間なのだから。

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